文字サイズ
背景切り替え
くらし情報
観光情報
町政情報
企業事業者
西日本最古の石積式蒸風呂【国指定重要有形民俗文化財】
薬師如来は、鎌倉時代の作で3尺5寸(約1m)の木造座像。
薬師堂周辺に安置されている33体の石像のうち2体は、「嫁いらず観音」「ぼけ封じ観音」とあがめられています。
八田八幡宮の境内にあり桜の名所。境内には四境の役、戊辰の役の戦死者の墓碑が建っている。
四境の役で活躍した人々をたたえた記念碑。
覚法寺12世雪道の二男として生まれ、維新の役には石城山に第二奇兵隊を編成し、四境の役では護国隊を率いて勇戦した。
学問を好み詩文を愛した文人型の武人で、脱藩して馬関(下関)での外艦との交戦に参加、後第二奇兵隊の参謀をつとめたが暴徒のため石城山で暗殺された。
僧月性に学び、第二奇兵隊の創設に参画し軍監となる。大島口の戦いで戦略の指揮をとり勝利をおさめた。
四国八十八カ所霊場を280回巡拝し、生き仏として崇拝された中務茂兵衛翁の顕彰堂。
棚田の下をトンネルのようにして作られた水路で、当時の石工の技術の高さを示すもので全国的にも類をみない。【山口県指定有形民俗文化財】
御神体は巨大な花崗岩で昔から巨岩の下に大蛇が住み卵を好むといわれているためいつも生卵が供えてある。商売繁昌の神様。
大島みかんの基礎となる良質の果実を造った、山本万之丞の功績をたたえた頌徳碑。
青木周弼は周防国大島郡和田村の医師青木玄棟の長男で毛利敬親の侍医を勤める一方、全国から集まった門人に教諭し、優れた蘭学者を輩出した。研蔵は周弼の実弟であり後に周弼の養子となる。
四境の役において、戦火の火蓋が切られた戦いで、幕府軍戦艦から撃たれた砲撃の跡が浄西寺の石垣に残っています。
旧東和町和佐出身の作詞家、星野哲郎先生をたたえる「なみだ船」の歌碑。
鎌倉時代の初期の建仁2年(1202年)の造立で、在銘石造物としては山口県を含む、瀬戸内海地方最古の石塔。
シーボルト江戸参府紀行によると「文政9年3月4日牛ヶ首に上陸。動植物の観察や対岸の沖家室島、平郡島、水無瀬島をスケッチして、同日の午後出帆…」とある。
大島郡沖家室島にある泊清寺、その別院に弘法大師空海の御真作と伝えられる地蔵菩薩が安座されています。
岩盤を貫いた洞窟式石風呂。徳川家光(三代将軍)の頃の検地帳に記載されていますが、更に古いものと思われます。
嵩山中腹の観音堂そばの南無阿弥陀仏と書かれた巨石。
大杉に囲まれた洞窟では、正月三が日に火が焚かれ、餅を焼いて食べ、一年間の無病息災を願います。
日本3文珠のひとつとされる三蒲の文珠
ヒノキ材の寄木造りで、漆箔着色の像である。像高は284cmの丈六仏で、県下の重要文化財の仏像で最も大きいものである。(通称「日見の大仏様」)
持国天・増長天の二体で、ともにヒノキ材の一木造り、持国天は像高81.3cm、増長天は像高80.4cmである。
東屋代神領の西蓮寺には、僧形の八幡菩薩像三躰が安置されている。西蓮寺所蔵の神教寺文書によると、往古、宝亀三年に法相宗の沙門實運が、屋代徳神の大壇に一宇の祠堂を建て、宇佐八幡宮を勧定し、自ら五智如来を彫刻して八幡大菩薩の本地としたと言われている。
麦の収穫期や田植え時期には、疲労回復、神経痛・腰痛などに効果があることから広く利用されました。
龍門好五郎(りゅうもんよしごろう)は、幼少より体格が優れ、成人して身長7尺5寸(約2m27cm)体重45貫目(約169kg)の堂々たるものでした。
明月上人は人間味豊かにして逸話多き僧である。 越後の良寛、備中の寂厳(じゃくごん)と共に「近世の三筆」と称せられ、「明月の書は松山藩の宝なり」と語り継がれた。
村上氏は今治沖の島々で活躍した水軍の家である。村上武吉は慶長六年(1601年)和田に住みつき、三年後この世を去った。その墓と夫人の墓がこれらの宝篋印塔である。
服部屋敷は、神社・仏閣を造ることで名高い地元長州大工の代表作であり、明治18年に建築され、平成6年現在の地に移築復元された。
淡島神社の本社は和歌山県加太で、和田正岩寺にはその分社がある。淡島様は、好縁、子宝、安産の神様として島内外の信仰が厚い。
〒742-2192 山口県大島郡周防大島町大字小松126-2
Copyright(C) Suo-Oshima Town All Rights Reserved.